私はおとなしくて引っ込み思案な子供で、母に世話をかけさせない子供だったが、保育園の一年保育登園時に母と離れたくなくて、弟は家に居るのに私だけ置いていかれると思い大泣きをしていた。
私は泣いた記憶はないのだけど、嫌だったし辛かったし楽しくなかった。
保育園の想い出は遠足やお遊戯会、最後にはお友達も何人かいたが、鮮烈に思い出すのが一枚の暗い絵。入園して間もない時だったのだろうか、いろいろな色が混ざって黒とも茶ともいえない暗い色の画用紙いっぱいに大きな長靴の絵。書いた自分がなんて暗い絵なんだろうと思ったことをはっきり憶えている。
私は母に置いていかれたと感じていたんだ。
母の忙しそうな背中、台所で用事をしている後姿、悲しそうな態度、二人目を流産したときはショックだっただろうし悲しかっただろう。
この当時のことを母は本当に忙しくてクルクルと動き回っていたと表現していた。
何かを話そうとしても、母は忙しくて自分の病気の事でいっぱいいっぱいで、私には関心を注いでもらえなった。
私は自分の感情、自分の望みを言葉で表現できない子供になっていく。
衣食住と世話をされ、安全な環境で育ててもらったが、一緒に遊べなかったし、言葉をかけてもらうことも少なかった。
両親は大きな声を出したり、言い争うような喧嘩らしい喧嘩はしませんでしたが、お互いが互いを認め合っていなかった。
父が私に母の悪口を云う、母が私に父の悪口を云う。認め合わないことが、互いのありのままの姿を受け入れないことが、私の身体や心の半分を否定され続けて育ってきた。とても嫌な感情で苦しかった。
この事に気づいたのは、娘が成人してから実家の両親のことを「二人ともとっても優しくて、とっても愛してもらったし、よく遊んでもらって大好きだった。けれど二人が仲が良くなかったことが本当に悲しかった」と聞いて、はじめてそのことに気づいた。たぶん私が育っていたときにそのことは普通の事のように思っていたのか、見ないように、なかったことのように見たくなかった私が自分で奥の方へしまい込んでしまっていた。
私も両親が仲が良くなかったことが悲しかったんだ。
この頃の両親は全てにおいて祖父母のことが優先されていたし、焦点が当たっていたのは子供でもなく自分達でもなく祖父母だった。
TVにしても祖母は相撲が好きで大鵬のファンで歌手は三波春夫が好きだった。
祖母が元気なうちは祖母が見たい番組が一番だった。家族でどこかへ出かけるということがほとんどない家だったが、百草園の温泉へ家族全員で出かけた、それも祖父母の為だろう。私は両親に遊園地とか遊びに連れていってもらった記憶がない。
私はどこでもいい遊びに両親に連れていって欲しかった。
そんなこと言わなかった、言えなかった?言っちゃいけないと思っていた?
私の庭には鉄棒とブランコと砂場があった。
父が私と弟の為に買って作ってくれたのだと思っていた。でもあの家は私が生まれる前から私と20才近く年の離れたいとこ達が遊びに来ていたんだ。
私が物心ついた頃に大きいいとこが鉄棒で遊んで鉄棒が曲がってしまったことがあった。
父は自分の兄弟姉妹のため、甥っ子姪っ子のために最初は作ったのだろう。
父は長男にかわって祖父母を扶養する責任、皆んなの手前親孝行でなくてはならなかった。
父も母も穏やかで優しい人だったし、親孝行な人だったし、私や弟は愛されて育ったのだとは思うが、関心を持ってもらえたかというと疑問です。