(一)国立武蔵療養所
昭和四十五年晩秋のある日。私は国立武蔵療養所の診察室に家族四人で問診を受けていた。私とあまり年の違わない先生が四才の長女を見て言った。「このお子さんのためにも酒を止めませんか」「先生、失礼ですがお子さんは」「私はまだ独身です」「お子さんも居ないのに子供の心配をなさるんですか」。
アル中まる出しの攻撃性!銀ブチ眼鏡の似合う上品な先生は、何も言わずに微笑んでいた。
後から家内が言われたそうだ。「ご主人は難しいですね」。
精神病院の門をくぐったのは無論初めてだった。杉並の本橋先輩が紹介してくれた。それも私の酒害で尻に火が付いた家族が本橋さんの所に駆け込んだのだ。当時の断酒会は全国紙にパブリシティーとして宣伝しており、連絡先が本橋さんの自宅だったのだ。
私の診断結果は「酒精中毒」。酒精はエタノールアルコールのこと。要するにアル中だった。因みにこの病気は半世紀の間に三回も病名が変わった。「酒精中毒→慢性アルコール中毒→アルコール依存症・・・」。病態は同じなのに何という厄介な病気なんだろう。
全断連中興の祖と言われた大野徹さんが、浜松医大の大原健士郎先生との共著「アルコール中毒」の前文でアル中は不思議な病気だ。原因が分かっているのに決して完治しないと。
日本の飲酒人口は八千万人と言われて久しい。酒税も約一兆二千五百億円(令和元年度 財務省)と国家にも貢献している。
要するにお酒は正しいものだ。お酒万歳の世界。現在の内閣でもナンバー2の大臣がかって、のたもうた。「たらふく食って、たらふく飲んで病気になったから助けてくれなんていう人間にはオレはビタ一文税金など払わない」。
武蔵病院には三年間ほど月一回シアナマイドを貰うため通院した。この薬がなかったら断酒できたかどうか・・・。
「来年一月末にベッドが空きます。入院しますか」。病院からの電話に「断酒会に入りますのでこちらで頑張ってみます」と答えた。
かくて私は昭和四十六年一月に断酒会に入会した。当時京王支部は無かったので実家のある新宿支部に入会した。
(二)飲酒体験談
酒との出会いは高校三年の夏。大学受験を目指していたので人並みに猛勉した。国語、英語の参考書を毎日各二十頁を読み暗記した。十分に計画して勉強の体制を作らずアル中的に六ヶ月での詰込み勉強に励んだ。さすがに疲れて机に突っ伏しハッとして目を開けると十二時、一時。
ある日ふとアルコールは気付け薬という新聞記事が頭に浮かび、父の寝酒のウイスキーをコップに半分ほど生で注ぎ一気に呷った。味はキツイだけだったが、十分ほどすると体がほてり妙に元気が出た。参考書に挑戦したくなったのだ。酒はいいもの。これが飲酒した最初の実感だった。
所期の大学にも入学し友達もできた。数人の仲間と早稲田や新宿の飲み屋で酒の味も分かるようになった。三合ほどまでは楽しい酒だったが、それ以上になると変わり目。仲間と明らかに違う行動を取るようになった。閉店している新大久保の飲み屋の戸を蹴破ったり、タクシーの運転手とトラブり最寄りの交番に連れて行かれたり。
それでも学生時代は利害関係が無いので仲間がフォローしてくれた。「飲んでも誰かが助けてくれる。事件を起こしても何とかなる」。
昭和三十七年に新聞社に入社。会社には酒好きの先輩がウヨウヨしていた。配属された職場で新入社員歓迎会が催され私も大いに飲んで、例によって正気を失った。「Tの酒はタチが悪いぞ」直属の上司が次の日私を呼んでこう言った。
新入社員のTは酒癖が悪い・・・。職場周辺でウワサになった。
「いいお嫁さんになるよ」と評判の女子社員と社内恋愛をし結婚を前提に付き合った。
「何で評判の悪いオレなんかと結婚したんだ」。後年妻に聞いたら「あなたは酒を飲まなければいい人。酒癖は私が治してあげようと思った」。まさしく”断酒会妻”真っ正直でまっしぐら。このタイプの夫人が多い。お陰で助かったのだが。
彼女の上司は人間的にも立派な人で妻のことも夫婦で可愛がってくれていたようだ。ある時「T君と結婚しない方がいいのでは」と上司に何気なく言われたと妻。
カッときた私は新橋の飲み屋で、椅子から倒れるほど上司を殴り付けた。
次の日彼女から電話がきて「あなたあの人に乱暴したでしょ。大きなマスクしてるけど顔が紫色に腫れているわよ」。謝りに行った喫茶店で彼は「君のことが心配で妻と明け方まで話し合った。立派な大学を出て彼女とも結婚するんだから立ち直って欲しい。今度のことは水に流す」。さすがに怒鳴られるよりこたえた。
にも拘わらず、病気は進行し私の酒害は妻や子供を直撃した。
新聞社は深夜勤務や宿泊が多い。朝刊作成のためだ。当時は結構な時代で正規勤務者が泊まる宿泊室とは別に”社ゴロ室”と呼ばれていた社員なら勝手に泊まれる宿泊室があった。酒やマージャンなどで終電に乗り遅れた不良社員の巣だった。
ここで二、三泊し帰宅しなかった私がある夕方帰宅すると、離乳食盛りの長男が妻に抱かれて赤い離乳食を食べていた。電気も点けない薄暗い中、目をこらすとトマトケチャップを湯で溶いただけの離乳食だった。いつもは攻撃してくる妻は土気色の顔で無言だった。打ちひしがれた感じだった。食事をしていなかったらしい。ツケのきくのをいいことに飲み屋をハシゴし散財していた私。すまないと心が痛んだのだが、またコップ酒に手を出す別人格の自分。会社では前夜の不始末で顔を伏せ人を避けるような毎日。家庭では思わず子供にあたる妻と、子供の「ゴメンなさい」を繰り返す鳴き声。全ての原因は私だった。
(三)断酒体験談
~私だけの”断酒格言”~
○ 例会に出ないで断酒する日が増えると白アリが増殖する
断酒会に出て断酒すると「断酒の家」はその都度堅牢になる。飲酒欲求という嵐がきても倒れない。例会に出ないで断酒が続くと「断酒の家」に飲酒の白アリが出て、柱や壁を食い荒らす。嵐が吹くと見かけは立派な家が倒壊する。
○ 柿の実は見事に色づいた実も、青く色の悪い実もあるが、木になっている以上、やがて良い色になる
これは私のオリジナルではなく、なだいなだ先生の言葉だ。入会当初失敗を繰り返し自信を失っていた私が先生の公演を聞い立ち直った金言だ。確か井の頭病院でのセミナーだったと思う。
○ 湖面をスイスイ泳ぐ水鳥は水中では、水カキのついた足で猛烈に蹴りながら進む。
例会出席も同じだ。
(四)エピローグ
一月に五十段の免状を貰った。三十一才で入会した私は今八十一才。五月には八十二才になる。決して自慢する訳ではないが、五十段というと四十才で入会すると九十才、五十才だと百才。若くして断酒会と出会った私は幸運だった。そしてこの免状は誰のものでもない。母、妻、二人の子供のものだ。私は柿の木にしがみついて落ちなかっただけだ。
会の皆さんと、脊髄損傷でリハビリ施設に入居する妻に満腔の謝意を込めてーーー。