危ない綱渡りその一
先日十年一緒に暮らした猫が突然死んでしまいました。彼女の短い生涯の前半五年では私のアル中が佳境を迎えるのをつぶさに見ていました。子猫の時からこの酔っ払いがいた訳ですから、酒の匂いにも慣れてしまったのか飲んで酒臭い膝の上にも平気で乗っていました。しかし慣れていたとは言え連続飲酒に入ってからは部屋が散らかっているのはともかくネコトイレの掃除も怠りがちな劣悪な環境で生活させてしまいました。そして生涯の後半、断酒生活になる訳ですが今度は入退院の繰り返しで家に置き去り状態が続きました。幸い親切な友人が合鍵を使って世話には行ってはくれましたが、部屋の掃除まではお願いする訳にはいかず、相変わらず部屋は散らかったままでした。そんな彼女に平穏な日々が訪れたのは私が断酒会につながった三年前からです。ところがそんな穏やかな時を三年も過ごさず、ある日急に逝ってしまいました。その前触れは猫特有の毛玉吐きから始まりました。いつものことなので気にも留めずにいたその翌日、普通はケロッとしているところですが、その時は食欲がなくその後一人で隣室に行ったかと思うと普段とは違う一鳴きが聞こえ、行ってみるとなんと息絶えていました。死因も分からぬ突然の死で、直後は異変に気付いてやれなかったことを随分悔いました。しかし日が経つにつれそれも薄れ、意外にも思ったほどのペットロスを感じることはなく過ごせるようになりました。ところが昼間の新宿例会を終えたある日、いつもの家事も予定より早く終わってしまい何をする事もなく迎えた夜、一人ソファーに座っていると急に膝の上の軽さを感じてしまいました。それはいつも乗っていた猫の重みの喪失感でした。それと同時にその重みを感じながら飲んでいた酒の重みもフラッシュバックのようによみがえってしまいました。それも強烈は喪失感として襲ってきました。
危ない綱渡りその二
例会廻りも三年を迎えると他会の方々とも親しくしていただき、お馴染みの人達とは毎日のように顔を合わせることになります。その毎日の顔合わせが例会出席の楽しみの一つでもあります。特に最初の頃は「Fさん今晩は」と名前を呼んでいただいたときは嬉しくてたまりませんでした。こちらがまだ名前を覚えていない時など嬉しくもあり大変恐縮したものです。そんな感動で始まった例会出席も毎日毎日続くと(人間とは愚かなもので)感動が薄れ当たり前の日常となってきます。それにつれて例会の真剣味も薄れがちになります。これだけでも十分三年目の危機になるかと思います。そのためどれだけ大切な話しを聞き流してしまったか知れません。この惰性感が例会のモチベーションを下げていきました。それでも出席を続けられたのは仲間のおかげでした。「また明日ね」「次は〇〇の例会でね」この一言を裏切ることができず、怠け心が頭をもたげると仲間の顔が浮かびました。そうして例会出席が途絶えることなく三年が経ちました。三年とは短いようですが、それなりの時間経過があるものです。毎日のように顔を合わせていた人が、ある時気付くと「最近顔を見ないな」ということがあります。心ある人ならばまず初めに「どうしたんだろう?体調をくずしたりしていなければいいけど」と心配することでしょうが、私はというとまず思うことは「いいな、毎日例会出なくてもいいなんて」と羨ましがっているのです。また不幸にしてその人が失敗(再飲酒)したと聞くと、あろうことかホッと胸をなでおろしているのです。それはそのことで自分の例会出席の正当性を確認しているのです。自分の断酒継続で確信するのではなく、他人の失敗で納得するというありさまです。確かに人によっては「ぼちぼち毎日顔を出さなくても酒には手を出さないだろう」と余裕の出てくる人もいるでしょう。しかしそれは稀なことで、仕事復帰や再就職で例会に間に合わなくなった、家族の都合(多くは親の介護とか)で家を空けられなくなったといった環境の変化が起こる場合の方が多いと思います。その方達が断酒を続けることがどれだけ大変か。仕事のストレスを抱えたままでの帰宅、家庭内でのストレスははけ口もなく蓄積するばかり、そして場合によってはその両方を抱えることもあるでしょう。それを我が身に置き換えたらどうでしょう?耐え切れずに酒に手を出している自分を想像できます。しかしそれは今このように文章にしているから思い浮かぶことで、普段は他人の楽さを羨んでばかりいるのです。
二つのエピソード、一見違った現象のようですが根っこは同じところにあるような気がします。それは言ってしまえば「マンネリからの気のゆるみ」。今、月曜から金曜、朝十時から午後四時半まで、京王断酒会が運営する「いばしょ」に通っています。ここでは午前・午後二回のミーティング。そして夜は都内各断酒会。土・日・祭も最低一箇所の断酒会出席。これが判で押したような毎日です。退屈はしていません。しかし余りにも日々変化がなく、正にマンネリ化しています。しかしこのマンネリとも言える日常が断酒を支えているのだと思います。分かってはいるのですが、なかなかマンネリには耐えられるものではありません。
余りにも日常が日常化してしまい、無意識となり、このマンネリ=日常が断酒を支えていることすら忘れてしまっています。だからエピソード一のように気が緩んだ瞬間に今はいない猫の重み(酒のグラスの重み)がフラッシュバックしてくるのでしょう。そしてエピソード二。毎日のプログラムが断酒を支えているのに、(たかが三年なのに)今は酒を必要としない人間になったような気になっているのだと思います。頭を冷やさなければなりません。
「断酒例会に週一回、月一回出席、あるいは断酒会を離れても酒を必要としない人もいるでしょう。でもお前はどうなのかと自分に聞いた時、それは無理と分かっている。だから私は毎日断酒会に来るのです」。昨年例会中に亡くなられた板橋断酒会のSUさんが杉並断酒会で話されたお言葉です。心が折れそうになる時、今もいつもこの言葉に支えてもらっています。そしてじっくり自分を見つめることも教えていただきました。
鬼門の三年目は今過ぎたのではありません。今日から始まったのだと思い直し、淡々と断酒生活を続けていきたいと思います。