私の酒害のために、母を巻き込んで長い期間心配と苦労をかけてきました。小さい頃は、泣き虫で弱虫で甘えん坊で母をこまらせました。
二歳の時、肺炎と肋膜を患い生死をさまよった時、寝ずの看病をしてくれた母。四歳の時、家の近くの池に落ちた時、大声で助けを求めたが近くに人がおらず、一度沈んで浮いてきた私を自分が泳げないにもかかわらず池に入り木の枝につかまってえり首をつかんで引きよせ、必死にまさに命がけで助けてくれた母。小学校一、二年の時、肺炎の跡がレントゲン検査で発見され、当時はバスがなくて一時間近く歩いて週に一度病院に連れて行ってくれた母。私は、小さい頃は身体が弱く気が弱い子供だったので、母はまさに神頼みで大阪近辺の神社等にお払いを受けに連れて行ってくれました。自分を犠牲にして私を守ってくれました。
昭和二十四年一家で東京に引っ越すことになり、出発する日若い頃から身体の弱かった母は、ニ、三日前から寝込んでいてとても東京に行ける状態ではなかった。父に「武男は連れていく、お前は東京に来なくて良い」と言われ、私と離れたくないし、一人では東京に行けない母は、必死の思いで一緒に東京に来ました。後日、叔父さんから「お前のためにお母さんは東京にきたんだよ、お前がいなければとてもこんな遠い知らない東京に来なかったよ」と言われました。本当に私を宝物のように大事に育ててくれ、愛情を注いでくれた母、しかし、母と私は血のつながりはありません。
私は、実の父と母の名前も顔も何処の誰かも知りません。生後七日目の夜、この家に引き取られ、養子ではなく実子として入籍してくれ長男として大事に育てられました。特に母は自分が生んだ子供ではない私を、わが子以上の愛情で私を守ってきてくれました。
昭和二十七年、両親が離婚して叔父さんの家にあずけられていて当時小学校二年生だった弟を父が引き受けることになり、私の両親の二男として入籍されました。苦しい家計の中で自分のことは我慢して私たち兄弟を必死に育ててくれ母、大変な苦労だったと思います。
私の酒がだんだんひどくなり、休日は朝から飲むようになっても文句の一つも言わず「つまみ」を作ってくれた母。老人会の旅行から帰ってきたら、会社に行っているはずの私が酔い潰れ、小便をたれ流しの状態でだらしなく寝ている。そんな私を見た時の母の気持は、どんなものだっただろうかと思います。楽しい旅行の思い出が吹っ飛んで本当に情けない思いをしたことと思います。
しかし、私の酒はさらにひどくなり、会社を休んで朝から飲むようになり「酒を飲んで仕事に行かないお前は本当に『ヤクザ』になったナ」と言っていた母。さすがに困り果てた母は弟と相談した結果、弟が府中保健所に相談に行き京王断酒会を紹介されました。私は弟と一緒に京王断酒会の第一例会に行き入会することになりました。
今は断酒して本当に良かったと思っております。酒をやめた時の嬉しそうな母の顔は今でも忘れられません。平成二年母が家で転んで怪我をして入院しました。入院した母の世話が出来たのは断酒していたから出来たことと思っております。その母も昨年十一月の本部例会の日に亡くなりました。本部例会に参加していた時に他界したということは、断酒している私に安心したのかもしれません。
本部例会に行く前に母の所へ行き、夕食を食べさせいつものように寝かせましたが、それから二時間後眠るようにこの世を去りました。そのことが私の気持ちを楽にさせました。母が亡くなってこれまでの私に尽くしてくれた思い出が胸をよぎります。十八年間ではありますが、飲まない姿を見せてやれたのがせめてもの償いになればと思っております。これからも母が安心して眠れるように断酒を続けていきます。