枠にはめ”コントロールしよう”と MK(家族) 1995

 夫のお酒の問題に悩まされ一日一日が緊張の毎日を送る中、何とかしなければ、酒を止めさせなければと、何をどうしたらよいのか分からず唯々日々を過ごすうち、初めて酒を薄めることを考えました。
 夫は焼酎のお湯割りで飲んでおりますが、連続飲酒に至れば何を飲んでも少しくらい水分が多くても分からないのではと、その時は本気で考えました。一リットルの焼酎を水一リットルで薄め用意しておきます。それを卓上ビンに半分ほど入れまた水を半分足します。お酒を作ってと言われれば、さらにそれをお湯で割ります。それも夫は分からず飲むと寝てしまいます。当時はこのこと一つ実行するのに本当に悩みました。今考えれば夫への恐怖心と自分の良心の呵責に苛まれていました。
 そんな日が何日か過ぎていくうち突然夫はアルコール癲癇で倒れました。もちろんアル癲であることは後日判ったことですが、その時は持病のリュウマチでやられている首からきた発作だとばかり思っていました。救急車で杏林病院へ、そこで初めてアルコールが原因であると知ったのです。うちの病院では引き受けられません、アルコール専門病院を紹介しますから、そちらと連絡をとってくださいと先生にいわれたときは正直ホッとしました。リュウマチによる首の発作は後遺症が恐ろしいと聞かされていました。半身不随になるか、悪くすれば死ぬこともあるといわれていましたから、とりあえず安心しました。
 しかし、紹介された病院へ行った時はまたショックでした。そこはいつも散歩コースで、前を通るたびに「ここには入りたくないね」と二人で話していた精神病院でした。やっとの思いで入院の手続きを済ませ、駆けつけた長男の車で家に帰るのですが、一日中何がどうなったのか頭の中はパニック状態でした。それでも落ち着きを取り戻すにつれて真っ先に感じたことは、「あーお酒を飲む人がいなくなったなあ、夜中中付き合わずにすむんだ、ゆっくり寝れるな」これは正直は気持ちでした。(その日は良く寝れました。)
 こうして私は初めて夫がアルコール依存症であること、妻である自分も依存症という家族全部の病気であることを知ったのですが、夫のアルコール依存症はうなずけても、自分までが、ましてや子供達までがアルコールの影響を受けているとはなかなか信じることができませんでした。しかし病院の家族ミーティング、保健所の酒害相談といろいろな自助グループに通ううちに「これは大変な病気なのだ、今自分がしっかり勉強していかなければ家族関係が壊れてしまう」そう思いました。本当はもうとうに家族関係は壊れかかってたのですね。夫の飲酒が深まるにつれ、二人の子供達は自分達の生活を求めて家を出ていました。
 とにかく自分が自分がで無我夢中でした。今自分にできることなら何でもやろうと思い込んでました。私は昔から夫を治すのは私だけ、夫を理解できるのは私の他にいない、そう思っていました。自我の強い傲慢な女です。そういう思いで断酒会に入会させて頂き、ここなら絶対夫は社会復帰が出来ると確信しました。私は必死でした。夫が退院すれば必ず私と一緒に断酒会を廻ってくれる。一緒に回復していきたい…。そんな思いは当然くずれていきます。
 私は夫を何とか自分の思いのままに、枠に入れてコントロールしようとしていたのです。当然夫の反発をまねく結果となりました。二度目のアルコール入院です。
 断酒会廻りもアッというまに一年が過ぎた頃、やっと気付かせて頂きました。私の思いは相手を益々苦しくさせるだけのことだったのです。夫との距離を保った接し方を今実行しています。からみあっている糸はなかなかほぐれません。今私は断酒会の皆様の輪の中にいられる幸せを感じます。
 自分一人ではどうすることもできなかった自分の無力さを認め、忘れていた自分、新しい自分を発見する人生の目標ができました。これからも長いお付き合いをお願い致します。断酒会に感謝を込めて……。