私はかなり若い頃から異常飲酒の状態だったと思います。その頃はまだ若かったこともありまた体力もあったので、少々の深酒では会社を休むことはありませんでしたが失敗の連続で、ひとつ間違えると生命にかかわることも何度かありました。酒をやめた現在、飲酒時代のことを思うと背筋に悪寒が走る時もあります。
いつものように仕事を終えたあと一杯飲み、いい気分で終電車に乗り帰宅の道についたのですが下車駅を乗り越してしまい、折り返しの電車もないので仕方なく線路を歩いて戻ることにしました。その途中、多摩川の鉄橋を渡らなければなりません。橋の上から見下ろすと、はるか下の川原に大小無数の石が月の光に鈍く輝いていました。
当時の鉄橋は枕木と枕木の間が空いており、足を踏み外せば転落してしまうので四つん這いになて、恐る恐る膝で一歩一歩ゆっくりと渡りはじめました。どのくらい時間がかかったのかわかりませんが、やっとの思いで反対側に着いたときは、手足はガタガタ冷汗タラタラ、上着やズボンの汚れも気にせずその場に座り込んでしまいました。もちろん酔いなどすっかり醒めてしまいました。終電後の回送電車に遇わなくて助かったと思っています。これが事件事故にでもなり、新聞沙汰にでもなっていたらと思うとゾッとします。
また、こんな事もありました。京王線の新宿駅が、現在のように地下駅ではなくまだ地上にあった頃、ホームの端を歩いていて線路に落ちてしまったのです。酔っていたので落ちた瞬間は覚えていま
せんが、気がつくと両手を後について座った格好でいました。脇を見ると長い鉄の棒が何本か光って延びていて、よく見るとそれは電車のレールでした。何が何だか理解できず周囲を見渡すと、大勢の人が騒いで上から私をみていたので、線路に落ちたのだとわかりました。幸いにも電車が入ってこなかったので助かりましたが、もし電車が入ってきたら大変なことになっていたところです。
最終電車に間に合わそうと駆け出して階段を降り、途中で足を踏み外してそのまま頭から落ちたこともありました。頭は打たなかったものの右腕に怪我をおい、半月ほど会社を休みブラブラしていました。何度痛い目にあっても酒をやめることができず、長い間同じことを繰り返してきました。
二十八歳の頃から、休日になると朝から飲むようになり、それが習慣になって朝、昼、晩と時間に関係なく飲むようになっていきました。年齢が高くなるにつれて体力も弱くなり、土、日の連休に飲み過ぎ、月曜日は会社を休むことが多くなりました。いわゆる『月曜病』というやつです。それまで私の飲酒に多少の理解があった母も、休み明けには会社を休み、朝から酒を飲んでダラダラし、次の日も出勤しない私を責めるようになりました。
母がうるさいので、二日酔いでも会社に行かない訳にはいかず、嫌々ながら家を出るのですが、電車の中で具合が悪くなり途中下車し、駅のトイレで吐いたり、ベンチで気分を落ち着かせたりしました。当然就業時間には間に合わず遅刻となり、それが嫌で会社に電話を入れ休むことになります。
駅の売店で酒を買って飲み、そのまま家には帰ることができないので一日時間を潰し、夕方、さも会社に行ってきたような顔をして帰っていくと、家の近くまで母が迎えにきていて「今日は疲れただろう」と言葉をかけてくれます。会社に行ったものと信じている母に「今日も休んだ」とは言えず、ただ黙って家の中に入っていくことしかできませんでした。そんな母の気持ちを思うと申し訳なくて涙が出てきます。
休日の次の日は二日酔いで出勤することが多くなり、肝臓も悪くなり、前日の酒が抜け切らず、毎日のように身体中から酒の匂いをプンプンとさせていたので、職場の同僚から「君の家の水道からはアルコールがでるのかい」といわれた言葉は今でも忘れることができません。
昭和五十七年六月九日夜、府中駅で酔い潰れ、救急車で病院に運ばれ入院しました。弟が来て「精神病院に入院させる」と言い、とにかく断酒会に入会することを承諾させられました。
その後、武蔵療養所に行きました。国分寺から萩山まで、弟にガードされて連れられて行った時の気持ちは忘れられません。自分が惨めで仕方がなかった。あの思いは二度としたくありません。
~そして医師から『アルコール依存症』と診断されました~