私の性分と断酒 MS 2017

 私が、初めて酒を飲んだのは、昭和四十八年四月、大学の工学部(専攻・建築学)体育会弓道部の新入生コンパでした。総部員数六十四名、新入生は十七名でした。それまでは、正月のお屠蘇をおちょこ一杯飲んだことのみで、酒に酔ったという経験は、一度もありませんでした。当時(今でも大同小異と思いますが)体育会での酒は、団結心を醸成し、組織への忠誠心及び勝利への洗脳の道具として大いに活用(今思えば悪用)されていました。新入生歓迎コンパは、その事始めであり、新入生が潰れるまで飲ませることを目的としていました。はじめの数杯は、おちょこですが、すぐにコップ酒となり、最後は、ビールジョッキになみなみと日本酒を注がれ、同期の者は、次々と潰れて行く中、私は、唯一最後の校歌斉唱(怒号)まで意識があり、稀に見る酒豪というレッテルを貼られました。
 それまで弓など触ったこともなく、同期の数名は、既に有段者もいる中で、多少の適性と人一倍の練習量により、多くの先輩をも追い越し一年生の秋から選手(正選手は八名)となりました。その後自己の鍛錬も怠らず後輩も厳しく指導し、三年生・弓道四段・幹部・副将となり団体成績で歴代最高の戦果を挙げました。
 卒業論文では、建築学科での最優秀賞を受賞し、苦労はしました(当時オイルショック直後で就職が決まらず一年留年)が、一部上場のゼネコンに就職することができました。ゼネコンでは、七年で主任となることがそれまでの最短記録でしたが、私は五年目で主任となり、二十七歳で一級建築士も一回で合格しました。
 ここまでの記述は、自慢たらたらで、自分でも嫌悪感を感じますが、これらの経験が、私の過剰な自信と傲慢な性格を形成したことに間違いないと確信できます。
 二十八歳で結婚することとなり、給与面から、財閥系住宅メーカーに転職(ゼネコンから見れば木造住宅などは、カスの仕事)しました。この会社は、純血優先、中途採用は、専門職的な員数合わせの「外様」という不文律が色濃くありました。内心疎外感を感じつつも、上司に恵まれ、年齢的に同期と同等もしくは、それ以上の立ち位置となり、四十七歳で取締役候補と言われるようになりました。
 酒の飲み方は、学生時代は、前述の通り飲んで議論し、後輩を洗脳する有効な手段として不可欠なものであり、ゼネコン時代は、酒が飲めなきゃ仕事も出来ないという伝統の世界で毎晩飲み放題。住宅メーカーでは、外様のコンプレックスと重責との戦いから逃れるための鎮痛剤・睡眠剤としての薬物となって行きました。
 自覚はありませんでしたが、過剰な自信と傲慢さをもって自分の実力以上に、精神的・肉体的に常にフルスロットルの状態が続いていたと思います。
 五十四歳でうつ病と診断され、工事責任者・品質保証責任者・支店幹部としての立場を放棄せざるを得なくなり、何よりの生きがいであった「自分の信念を貫き部下を育てる」の部下を手放すことは、断腸の思いでした。
 有難いことですが、閑職におかれた身は、おきどころもなく、苦痛といらだちの日々でした。しかし、意地でもあと六年間席を置き、定年まで我慢しようと決心しました。
 酒量は、加速度的に増えていき、五十七歳で手の震えが常習化し、五十八歳で連続飲酒に陥り、自力断酒を試みましたが、禁断の苦痛は、恐ろしいくらい厳しいものでした。
インターネットで調べ、自分はアルコール依存症であることを確信し、掛り付けの心療内科の医師に助けを求めました。幸いなことに、翌日から井之頭病院に入院することが出来ました。
 入院中は、各自助会のメッセージに触れ、京王断酒会が圧倒的に自分に最適と直感し、退院直後に入会しましたが、一昨年再飲酒に陥り、各位には、大変ご迷惑をかけてしまいました。
 私も言っていましたが、退院後半年程度は、「私は、飲酒欲求ありまっせん」が常套句です。しかし、これは嘘です。はじめの頃は、緊張感と不安が飲酒欲求を押し殺し、無いものと感じますが、アルコール依存症は、通説の通り、不治の病であり決して飲酒欲求が消えることは無いと思います。
 これからも京王断酒会にお世話になり、断酒継続、ピンピンコロリであれば、マアマアの人生「可」かもしれません。