私が初めて飲酒したのは中学三年生の夏、十四歳の時でした。父親は大工で私を大工にするつもりで中学二年生ぐらいから春休み、夏休みになると現場に連れて行って、大工の見習いみたいなことをやらしていました。当時父は請負師をやっていたので、ある程度自由がきくので学校が休みの時は、ほとんど現場に行っていました。建前の日の終わった夜、職人が皆でお酒を飲む時に若い人達と父の目が届かない場所でイタズラの気持ちで酒を飲み、父たちより早く一人で帰ってきて最寄り駅に降りた頃、酒が効いてきて酔いが回ってきたみたいで良い気持ちになってきて、酒というものは良いものだと思いました。
私は不器用で父の期待にそえなくて、身体も小さくて母の反対もあって父も大工にすることを諦め、中学卒業と同時に印刷会社に就職しました。
その年の仕事納めの時、職場でご苦労さん会があり、私は子供だからジュースだと言われたが、一度酒を飲んでいるので「酒がいい」と言ったので、大人たちが面白がって酒をのませてくれました。年が明けると会社の前にある酒屋に連れて行ってもらうようになって、それが楽しみになっていきました。それからどんどん飲酒するようになって十七歳の頃には一人で酒屋通いをするようになりました。それからどんどん飲酒するようになりました。
十五歳から酒を飲んでいたので、今思えば若い時期にアルコール依存症になっていたのではないかと思います。それに気付かずにどんどん酒に溺れていき、飲み方も酷くなり、会社の休みの日は朝から飲むようになり、朝、昼、夜と連続飲酒となり、次の日会社を休み、また朝から一日中飲酒するようになりました。
両親は酒は飲まないし、両方の親戚を見ても酒好きはいるが私のような飲酒をする人はいないので、私は誰に似てこんな酒飲みになったのだろうかとおもったことがあります。後で知ったことですが、私は両親の本当の子供ではなく、実の父親は私が母親のお腹にいる時にどこかへ逃げてしまい、逃げられた母親も身体が弱くて生まれてくる子供を育てられないで誰かもらってくれる人はいないかということで知人を通して話があって、生後七日目の夜育ての家に連れてこられたということで、実子として入籍され大事に育てられました。私は実の両親に生まれて直ぐに見放された訳です。
私を育ててくれた両親の苦労は大変なもので、特に母は現在のようにミルクが自由に手に入らない時代だってので、私を連れて近所に同じような赤ん坊がいる家にもらい乳に行ったそうです。私は子供の頃から身体が弱く気の弱い泣き虫で両親に心配をかける子で、小さい頃は母親依存で母がいないと淋しくて仕方がありませんでした。
十五歳で就職した初日、昼の食事をどこでたべてよいかわからなくて職場の人に聞くことも出来ず、職場の片隅で一人母の作ってくれた弁当を開いた時、母の優しい顔が浮かんできて涙が弁当の上に落ちて、淋しくて一人泣きました。しかし、歳を重ねるにつれ飲酒がどんどん酷くなって、あれだけ愛情を尽くしてくれた大好きな母を私の酒のために心配をかけ、長い間苦労させたことに本当に申し訳ないことをしたと思っております。詫びても詫び切れない思いです。
私は酒が原因で内科の病院に都合四回入院しましたが、三回は退院してくると直ぐに酒を飲みだす始末でした。四回目の入院中に断酒会に入会して何とか酒が止まって現在に至っています。入会して三日後、国立武蔵療養所の外来に行って医師から『アルコール依存症』と診断されました。そしてこのまま酒を飲み続けると当時四十二歳でしたが五十歳までに必ず死ぬと言われ、断酒会の例会に出席して断酒するように言われました。
最初はアルコール依存症の知識がなかったので理解できなかったが例会に出ている内に段々わかってきました。そして自分は病気だということ時間が経ってわかってきて、例会の中でもアルコール依存症と口に出して言えるようになり断酒に対して気持ちが楽になりました。その後、仕事の都合で八年ほど例会に出られない時期がありましたが、断酒会をやめなくて本当に良かったと思っております。
現在、本部事務所で毎週月・火の二日間酒害相談員をやらせて頂いていますが、酒害に困っている本人、家族の少しでも力になればと思い例会に出席するように勧めていますが、電話相談はあるが例会出席となると少ないのが現状です。しかし、直ぐに例会に来てくれる人は断酒が続いているというケースが多いことも事実です。自分が断酒会に助けられたので今度は手助けする番だと思っています。そのためには、今後私自身しっかり断酒継続をしていかなければいけないと思っております。