七月に本部例会では初段の免状を頂きましてありがとうございます。この一年は、飲酒欲求、離脱症状などの辛い日々が続きましたが、免状を頂けましたのも断酒会のお陰であり、これから断酒継続していく上で大きなパワーを貰ったと思っています。
私が飲酒を始めたのは高校を卒業してからで、今から思うと可愛い飲み方をしてなかったように思います。居酒屋で飲めば「コップが小さすぎる、ドンブリ持って来い」と店員を怒鳴りつけ、注文の取り方が悪いといっては「お前じゃ話にならない店長を呼べ」と脅す。スナックではホステスの接客マナーが悪いからと「こんな店、二度と来ねえ」と大声を上げ、ボトルを床にたたきつける。といったことを十九歳位にしており、今考えると酒乱の始まりであったように思います。
独身時代はスナック、キャバクラに通い、朝の四時五時まで飲酒し、帰る途中に店の看板を蹴っ飛ばして損壊させ、街頭に設置してある消火器をぶちまける、駐車中のドアミラーを閉まる方向と反対に折って壊すようなことをしていました。結婚してからもキャバクラ通いはやめられず、夜中の二時三時に帰宅しタクシー代を着払いさせ、時には公園や駅の改札で一夜を過ごして翌日帰宅ということもしばしばありました。また小遣いだけでは飲みに行くことも出来ないので、サラ金から借金をし、家を購入するための資金を勝手におろしたり、妻が貯めていた五百円玉を盗んでは金を工面していました。
私が酒の飲み方が少しおかしいと思ったのは三十五歳位からで、夜勤の仕事をしていた私は勤務が終了した解放感から昼から飲み始め、寝て起きては飲酒というパターンが続き、酒が入っていかなくなると無理矢理吐いて胃袋を空っぽにして飲酒していました。そんな中、職場の健康診断があり肝機能の数値が高いと言われ病院で受診すると「急性アルコール性肝炎」との診断が下され、酒を控え仕事も軽勤務になりますが、一ヶ月もすると肝機能の数値がほぼ基準値に戻ったことから再び酒を飲み始めていました。
私は苦い経験をしたことにより酒には十分気をつけていましたが、四十歳の夏、職場の人事異動があり私にとって初めての業務でもあり毎日馴染めず何をしていいか分からない状況の中、仕事量は増え上司からは結果を求められ、追いつめられるような状況に「何で俺だけが・・・」という思いが生じ徐々にストレスが蓄積されていき、元々好きだった酒に逃げる日々が続き酒の量も増え始めました。
勤務が終ると直ぐに隣のコンビニに駆け込み缶チューハイを買いバス停で飲み、バスや電車を降りてはコンビニ前や公園で飲む、帰宅すると買い込んだ缶チューハイを飲み、なくなると買い出しに出るという生活を繰り返し一日二十本近く飲み続けました。休みの日になると妻と子供が出かけたのを見計らって朝から飲み出し、妻達がいつ帰ってきたかも分からず夜か昼かも区別がつかない状態でブラックアウトを起こしていました。寝小便は当たり前で洋服ダンスや台所で小便をし、家の壁を殴り蹴飛ばして壊す、さらには妻の存在自体が鬱陶しくなり顔を見ると「出ていけ!とにかく出ていけ!お前に俺の気持ちが分かるか!子供も一緒に連れて出ていけ!」と繰り返し暴言を吐き、家から妻・子供を追い出し、家族を顧みず酒ばかりをあおり、自分の心のよりどころである酒が手放せなくなりました。
だんだん酷くなる飲み方を見て妻からは「病院へ行ってください」と言われ、酒をやめる気などなく「病院に行って何になるんだ」と思っていた私は再三拒否をしていましたが、あまりのしつこさに妻の気持ちがおさまるならと一回だけと思いクリニックを受診した訳です。気が付けば井之頭病院への通院、入院となり妻の思惑どおりになったことに腹立たしさもあり「アルコール依存症」というものを否定していましたが、今思えば病院につながる機会をくれた妻には感謝しています。
入院中に院内のプログラムを行い、仲間の死を目の当たりにしたことで酒の恐ろしさを覚え断酒を決意し、断酒会「いばしょ」を知り、退院した日から断酒会に毎日出席し京王断酒会に入会しました。暇を作らないいようにと「いばしょ」に通い、大勢の飲まない仲間に出会い、助けられ、また家族の支えもあり今日まで断酒が続けられていると思います。
これからも命ある限り例会出席し、一日断酒頑張ります。