「小さかった私」の本当の気持ち ① NO(家族) 2013

私は競馬場が近くにある町に昭和32年3月3日に第一子長女として生まれます。
その当時は公道を馬を連れて歩く姿もよく見られ、馬糞も道に落ちているような田舎で、最寄りの駅からは家も少なく、徒歩4分の我が家まで遮る家がなかったそうです。
その家に両親と私、高齢の祖父母と住んでいました。
庭に「まる」という犬とにわとりを飼っていました。
Mおじいちゃんは浅草で輸入(?)の会社をしており、仕事でイギリスに渡ったこともあるということをつい最近いとこに聞き知りました。
父も浅草で生まれ浅草で育ったのですが、東京大空襲で自宅を焼かれ今の実家の場所へ移り住むことになりました。
Mおじいちゃんは町名番地を決める時に、とにかく一番がよく、1丁目1番地の1にして欲しいとかけ合いましたが丁目は変えられず2丁目1番地の1(実家の場所は1番地の1でもなかったのですが)に決まりました。うたいを嗜み遊び人だったので、Mおばあちゃんはお金で苦労したと聞いています。
父は6人兄弟の5番目の次男(男2人、女4人)です。
何故祖父母と同居することになったかというと、長男夫婦と同居していたのですが、折り合いが悪くなり、何があったのかは解りませんし、叔母も少し感情的になるところのある人でしたが、結果的には叔母が家を出て父の兄も別に所帯を持つことを選びました。
かくして両親は祖父母と同居の結婚生活が始まりました。昔の日本家屋ですから畳で部屋と部屋の境はふすま一枚です。結婚当初Mおばあちゃんが夜ふすまを開けて覗きに来たそうで、本当にそれが嫌で、目がさめていても起きるに起きられなかったと母が言っていたそうです。母が他界してから弟から聞きました。
父は野球と釣りが好きな人で、子供の頃野球少年でキャッチャーをしていたそうです。巨人のファンで後々TVの番組は野球中継で独占されていました。
父の仕事は塗装業で伊勢丹関連の塗装会社に勤めていました。給料をいくら貰っていてかは知りませんが、本家としての付き合いや祖父母の扶養もあり、家計は厳しかったでしょう。
母は4人兄弟の3番目の次女(男2人、女2人)。母の実家は米屋で使用人もいて両親が仕事で忙しかったのか母は「私はほとんどお手伝いさんに育てられたようなもの」と話していて、家族の墓地にはその方の墓もあったそうです。
母の実家は本家だという意識の強い叔父、叔母だったし、叔母は気の強い人で母方の祖母と仲が良くなかった。
父が結婚してから訪問した際は、誰に云われたかは解りませんが「酒、タバコをするのは駄目人間だ」と云われたそうで、父はそれ以来冠婚葬祭以外はいっさい行かなくなりました。
家の裏手には、父の姉の結婚相手の両親が住んでおり、その方の口利きで浅草から移り住んだと思われます。
裏のおじいちゃん、おばあちゃんはほとんど毎日のようにお茶飲みに我が家へ訪れたので母は大変だったと話していました。
私の家はどなたが来てもおもてなしをする、気分を悪くさせてはいけない、気分を良くして帰ってもらう、そういう感じでした。
Mおばあちゃんは昔あった大和の薬売りの人も家に上げ、お茶を出し、ひとしきり話をしていてそうです。
祖父母がいるので4人の叔母達は子供を連れ頻繁に訪れ、実家なので夏休みは子供連れで泊まっていったそうです。
お客様が来ると、寿司を出前してもらう、できる限りのことをする家だったので、家計は大変だったと思います。

私の「N子」という名前ですが、両親が名付けたのではなく祖母が信仰していた佼成会という宗教団体に良い名前をみてもらって付けた名前です。
母は特別に信仰心のある人ではなったのですが、本を読まされたり、祖母が出歩けなくなったせいか、本部に行くよう云われ、本当は行きたくないのに、信仰してないのに、子供を連れて行くのは苦痛だったそうです。

②へつづく