「N子」という名前が好きじゃなかった。どうしてだろう?
可愛くないからとばかり思っていたが、1月の例会とこの文章を書きはじめて気がついた。
両親が決めたのでもなく、祖父母が決めたのでもない。佼成会というところに名付けられたのが嫌だったんだ。
母は何も言葉では云わなかったが、私が感じてしまっていた。
私は自分で気づいていなかったが、自分の子供の名前は夫婦で考えて名付けたいと強く思っていた。
私と2才違いの弟の間にもう一人子供がいた。その子は何ヵ月かで流産したそうです。
水子供養はどうしてだか解りませんが、母の実家の墓のある寺でしてありました。
何故自分の嫁いだ家の寺ではないのだろう?今までそんなこと考えたこともありませんでした。
母は自分の子供の供養をしたいと云い出せず、実家に頼みその子の供養をしたのだろうか?
祖父母が浅草から移り住む際に、土地と家を購入した時に祖父の名義にせず、同居をする長男の名義にしてありました。
長男夫婦が出て行ったことで住んでいる家と土地がこれから先、相続ではなく贈与ということになり、贈与もしてもらえるかもわからず、税金も多く支払わなければならなくなる。このことも後々両親に重くのしかかってきた。
私の家には五段飾りのお雛様がありました。
誰がどこで買ったのかということは一度も聞いたことがありませんでした。
父の一番上の姉が本郷で大きなおもちゃ屋に嫁いでおり、私の娘が誕生した時に父は姉の所で雛人形を買ってくれました。自分が見に行って姉と共に選んだのでしょう「顔立ちがこれが一番綺麗だった」と話していました。
たぶん私の人形も本郷で買ったのだろうと感じました。
父は子供の頃、姉達にいろいろ世話になり可愛がられて育ったようです。頼りにしていたし、頭の上がらない存在だったようです。
父の兄弟姉妹は賢い方達でした。祖父母が健在なうちは子供を連れて頻繁に訪れました。知的で穏やかで優しく私はとても可愛がってもらいました。
おもちゃやお土産を貰い、お菓子を食べ、いとこと遊び、出前の寿司を食べられるので、とても楽しかった叔父叔母のことが好きでした。
母の実家は歩いて10分程の所にあるのですが、行った記憶は数少ない。商売をしていたせいもあるのか、喜んで迎えられ可愛がってもらったことはなかった。私は叔父も叔母も好きではなかった。
父は母が実家へ出かけるのを心良く思っていなかった、というよりは嫌がっていたので、母も実家へあまり帰れなかったようだ。
母の姉は小金井に住んでいて商売をしていましたが、その叔母には特に可愛がってもらった記憶がある。
いとこが同じ年の女の子だったこともあり、叔母の性格が面倒見が良く温かみのある人だったので私は大好きだった。
夜寝るときは、父、母、私の川の字で寝ていたが、2才になる前に弟が生まれる。父、私、弟、母で寝るようになった。
私は母の横で本当は寝たかった。
冬の寒い日、私は父の布団に入り足を温めてもらった。父の足はとても温かくて、私はすぐに眠りについた。
祖父は私が物心つく頃には痴呆行動がはじまっていた。
「弟がかくしてあった俺のお菓子をとった」とか「財布を誰かがひもをつけて引っ張っていく」のようなことを云い出していた。
私が7才の時に祖父は他界するのだが、祖父と会話らしい会話をした記憶がない。
母は心臓弁膜症で女子医大へ通っており、医師から「手術をしないと3年の命です」と告げられ、その話をしたところ、祖母に「私達を置いて行くのか!」と云われ、手術を断念しました。
私が保育園へ行く前のことだったそうです。
私は一度足に火傷をしたことがありました。今でも跡が残っています。昔はじゃが芋のすったのを幹部にあててガーゼをして手当てをしてもらいました。
毎日毎日じゃが芋のすったのを変えてもらいました。
私が怪我をしたり、風邪をひいたりしたときだけ母が近くに居て、母を感じられた気がします。
牛乳屋さんからびんのヨーグルトを買ってきてくれます。具合の悪いときにしか買ってはもらえなかったし、母の焦点が私にあたるのは具合の悪い時だけでした。
とても淋しかった。私の方を向いて欲しかった。抱きしめて欲しかった。目線を私に合わせて話を聞いて欲しかった。
今考えると母は精一杯だったんだと思う。
やる事、考える事が多すぎた。助けてと誰にも云えなかったその頃の母を、私は今抱きしめてあげたくなった。